コラム

■第3回 体験談 22歳での実父からの事業承継  北原慎一郎

 昭和47年1月に父が突然亡くなった。自分は大学4年生で社会経験すらなかったが、自分が社長になるしかなかった。当時の社員36名の中で自分が一番若かった。社長になってからの4~5年は難問が続出した。その中でも「子会社の処理」が一番辛かった。

 当時、年間2~3000トンの鋼材を東京の問屋さん2社から購入していたが、その問屋さんから「一緒に鋼材加工会社を作らないか」との誘いがあった。北原電牧(株)を継いだ直後でありお断りしたが、「社長は、今まで通り北原電牧に専念し、子会社は総務部長に任せればいい。彼は力があるから大丈夫」と言う。総務部長から問屋さんに持ち掛けた話だったのかもしれない。何度も部長に、この話にはのれないと言ったが、最後に「社長は僕の人生に責任を持てますか」と言われ勝負がつく。23歳の自分には、30代の部長に、ここはひとつ自分に任せてくれとは言えず、彼を実質社長として会社はスタートしてしまった。

 しかし、子会社設立後すぐにオイルショックとなり、大型設備投資は吹き飛んでしまう。だが、既に会社は設立済みであり、目的を変えて会社を存続させたが、すぐに赤字となり、やがて債務超過となった。この時点で撤退を決め、総務部長には責任をとって辞めてもらい、会社整理は自分が当時の経理課長と一緒に進めることにした。

 まず、債権債務をひとつずつあたり、精算バランスシートを作る。在庫なら一品ずつ評価し、半額なら引き取れるもの、雑品にしかならないものなど区分していく。出来上がった精算バランスシートを持って東京の問屋さんにお伺いし交渉した。経緯を説明し、力のなさを陳謝し、「一社567万円ずつこの会社に貸し付けをし、第三者に迷惑をかけないように精算したい」と提案した。最終的には了解をいただいた。子会社は債権債務を整理した後に実質休眠会社とし、ほかの会社への鋼材取引をこの会社を通すなどしていただき、数年後には資本金と貸付金を回収することができた。

 こんな事が毎年起きた。20代の自分の力をはるかに超えた難問ばかりだった。辛かった。ある冬の日の通勤途中に道端で、雪の上に嘔吐したことがあった。ストレスだった。楽をしたかったわけじゃない。当時の自分には社長としての力が何一つ無いことが悔しかった。誰も自分のことを心の中では社長とは見ていない。それを自分が一番良く知っていた。1年でも早く普通の社長になりたいと思った。難問の山はその試練だった。

 突然の事業承継の危機を乗り越えられたのは、社員の力と努力のおかげだった。主力は20代の社員だったが、彼らは不安を乗り越え、会社の存続のために全道を駆け回り、精一杯頑張ってくれた。やがてチャンスが訪れる。北海道の酪農が欧州の酪農に追いつけ追い越せと急拡大する。彼らは全道各地の大きな仕事を軒並みものにし、会社は急拡大した。自分が彼らを鼓舞したわけではない。彼らは、自らその役割を認識し、自らその力を発揮してくれた。自分にできることは、そんな頑張ってくれる社員に報いる仕組みを作る事だった。経営をすべて公開し、決算手当など利益還元の仕組みを作った。

 当時を振り返ってみると、自分にできることは三つしかなかったと思う。力の無い社長だったが、どんな小さなことでも、精一杯「本気」でとりくむこと、本気が人の心を打つ。誰とでも「公平」に付き合うこと。社員がやる気を失うのは不公平だと思った時である。そして、時々「自分を振り返る」こと。鼻持ちならないいやな奴になるのを防いでくれる。営業も、総務も、工事も、開発も、工場も、いつまでたっても、彼らにかなわなかったが、この三つは自分なりに貫いていたと思う。そして、この三つは、20代の時ばかりじゃなく、いくつになっても大事な事だと思うようになった。






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